ごあいさつ
堺市立城山台小学校、美木多中学校、大阪府立堺東高等学校を卒業。
創価大学教育学部を卒業後、団体職員として、総務部・企画部・出版部などで勤務。
結婚後、千葉県から泉北ニュータウンに戻りました。
その人の個性を引き出す、イメージコンサルタントとしても活動する中、次男が重度自閉症スペクトラム障害と判明。悩みの連続でしたが、彼のおかげで様々な出会いや気づきがありました。現在は地域の声掛けボランティアや青パト巡回、障がい者サークルでの活動をしています。
誰もが個性輝く人生を生きる権利がある。私を育て家族を支えてくださった大好きな南区を、「誰もが自分らしく輝けるまちへ!」これが私の決意です。
経歴
- 昭和45年
- 兵庫県尼崎市で生まれる
- 昭和49年
- 泉北ニュータウン晴美台に引越し
- 昭和63年
- 堺東高校卒業
- 平成5年
- 創価大学教育学部教育学科卒業
- 平成11年
- 団体職員 退職
- 平成12年
- 結婚、千葉県船橋市へ転居
- 平成16年
- 堺市南区、泉北ニュータウンに転居
- 令和7年
- 公明党堺市南区市政策委員長に就任
みさきストーリー
波乱の幼少期から
昭和45年兵庫県尼崎市で生まれ、茨木市を経て4歳の時に堺市南区に引越してきました。
幼稚園時代は、道草の先頭に立ち、門が閉まっていればよじ登って先生を呼びに行く活発な子どもでした。
小学校時代は、父の仕事の関係で晴美台小学校から庭代台小学校へ、そして城山台小学校へと転校が続き、その経験が 「初めて会う人にも心を開く」ことができる自分に成長させてくれました。また、妹を守るため、石を投げた男の子のクラスに乗り込んだこともある正義感強い子どもでした。
美木多中学では、剣道部で万年補欠。ある日突然やる気になり、得意な「こて」の技を磨き、帰宅後も毎日素振り100回。そのかいがあり初出場で準優勝ができました。
高校時代は、経済苦のどん底。 駅から歩いて通い、アルバイトで家計を支えました。
創価大学に進学し、 「自分のためだけでなく、誰かのために動くことが人生を豊かにする」 という気づきと、 障がいのある人も、ない人も、高齢者も若者も、 それぞれが持つ力を認め合い、学び合いながら生きられる社会こそ、 本当にあたたかいまちだ という価値観が育っていきました。
障害児を持つ母として
次男は重度自閉症スペクトラム症と診断され、幼稚園では毎日付き添い、小学校では先生方に見守られ、何度も助けられました。また、近所の子どもたち、保護者、自治会の方々にも、通学や日常で息子を見守っていただき、人のありがたさが身にしみました。「見守っているよ」 の一言に、どれほど救われたかわかりません。
障害児の育児は、正解のない世界。 療育も支援も進路も、すべてが手探りで、壁にぶつかるたびに、私は学び、悩み、また立ち上がりました。
障がいのある子の親や兄弟が、 そのことで夢を諦めなくていい社会。 高齢者だからといって、枠にはめられなくていい社会。 助けてもらう側が「ごめんね」と言わなくていい社会。 健常者も障がい者から学び、障がい者も健常者から学ぶ。 そんな“お互いさま”が当たり前になる社会が必要だとの思いが強くなっていきました。
家族と地域への思い
産後の病気で、家事も育児もできなくなった時、家族と地域の支えで、回復。その後イメージコンサルタントとして働き、 障がい児とその親でつくる「レインボーの会」で活動しています。また、地域では、青パトに乗り見守り活動を続けています。
長男が小学生のころ、 「僕も早く大人になりたい。だって、内の大人は楽しそうやん」と言った言葉が、私の人生の宝物となりました。
大切なもの
私は、これまでの人生を通して、「人は、人によって救われる。地域は、人によって守られる」ことを学びました。
だからこそ、困っている人を見過ごさず、子どもも高齢者も障がいのある人も安心できる社会。誰もが自分らしく生きていける、これが、私が大切なものです。
こうした私の経験から生まれた思いは、“誰も取り残されないまちをつくりたい” との願いに変わっていきました。そして今は、もう一歩進んで、 “誰もが自分らしく輝けるまちをつくりたい” と強く願っています。